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歌謡曲リミテッド スペシャルインタビュー

BORO、命のうねりを感じる新作『SHOUT!』

インタビュー・文/内本順一 公開日:2018.01.10

「大阪で生まれた女」「ネグレスコ・ホテル」などのヒットで知られるBOROが2015年から再びアグレッシブな活動を開始し、この度ニューアルバム『SHOUT!』をリリースした。これはそうした自身のヒット曲・代表曲に、近藤真彦、沢田研二、松田優作らに書き下ろした曲のセルフカヴァーや、上田正樹「悲しい色やね」を始めとする大坂ソウルソングのカヴァーなどをスタジオライブ形式で一発録音して収めたもの。弾き語りならではの生々しさを伴って、その熱い歌たちは聴く者の魂を揺さぶらずにはおかない。この新作の思いだけじゃなく、いい機会なのでこれまでのキャリアを振り返ってもらいながら、じっくり話を聞いた。

いつか自分も戯曲を書いてみたいと思っていた

――今日はニューアルバム『SHOUT!』の話だけでなく、キャリア全般についてお話を伺えればと思ってます。まず、出身は兵庫県の伊丹市なんですよね。

BORO:そうです。

――デビュー前からずっと弾き語りをやられてたんですか。

BORO:ロックのコピーバンドみたいなこともやってましたよ。ただ、私の場合は小学校5年生のときからオリジナル曲を作ってましたので。25歳でデビューする頃には300曲くらいオリジナルがありました。日本語のロックっぽい曲をたくさん作っていたんです。

――300曲! それはすごい。どういった人に影響を受けて音楽をやるようになったんですか。

BORO:ジャンルを完全に超えたところでのスタートで、小学校の頃は三橋美智也さんとか坂本九さん、ダニー飯田とパラダイス・キング。いわゆるヒットパレードものですね。あとはグループサウンズ。それからビートルズ、ストーンズ。「ろいく」と呼んでた黒人音楽も。本当にありとあらゆる音楽を聴いてました。ナット・キング・コールもオーティス・レディングも大好きでしたね。それと、5つ上の姉がプレスリーのレコードをよく買ってきて。それが自分にとっての教科書になりました。

――楽器は初めからギターを?

BORO:中学の頃はブラスバンド部でトロンボーンを吹いてたんですよ。その頃はルイ・アームストロングとかベニー・グッドマン、ポール・モーリアなんかが好きでしたね。それからロックバンドをやって、そこではベースを担当して。並行してギターの弾き語りもやっていたんです。

――大阪で弾き語りをしていたときに内田裕也さんが観に来て、BOROさんの歌と才能に惚れ込み、それがデビューのきっかけになったそうですね。

BORO:そのときはバンドから離れて、北新地のスナックで弾き語りをしていたんです。25歳でデビューする前だから……確か23歳のときですね。当時はまだカラオケもなくて8トラ(ジュークボックス)の時代。私はそこでロックっぽいオリジナルを歌っていたんですけど、裕也さんは「こんな面白いやつがいるぞ」と誰かに連れて来られたようで。オリジナルを弾き語りで歌うひとはまだそんなにいなかったので、界隈で噂になってたみたいなんです。

――裕也さんが観に来たって、すぐわかったんですか。

BORO:フラワー・トラベリン・バンドが大好きだったので、「あ、裕也さんだ!」と。自分の価値観に近い方が来られたなって思いましたね。もちろん緊張もしましたけど、裕也さんは「バラードっぽい曲もあるの?  あったら歌ってよ」ってどんどんふってくるので、バラードも歌って。「大阪で生まれた女」もその1曲として歌ったんですよ。そしたら「面白いなぁ」と喜んでくださった。で、「こっちに来て座れば? 名前はなんていうの?」って訊かれて、「BOROです」。「なにそれ?」って訊かれたので、「ボロボロの自転車に乗っていたので、BOROって呼ばれるようになったんです」と答えたら、「面白いな、それ」って。それで帰りしなに「デモテープを送ってくれ」と言われ、「いま何曲くらいあるんだ?」と訊かれたので、「300曲以上あります」と答えたら、「2枚組のアルバムが作れるな。じゃあ、とりあえずそのなかから自信のあるものを50曲くらい送ってくれないか」と。で、「レコーディングする気はあるかい?」「東京に来る気はある?」といろいろ訊かれ、「また今度大坂に来ることがあるから、そのときはロックっぽいカッコで演奏してくないか」とも言われて。私もなんだかワクワクしながらそれに応えてましたね。そうそう、裕也さん、加納典明さんと一緒に店に来られたこともありましたよ。加納さんが写真を撮りながら入ってきたので、ビックリしました。歌ってたら、近づいてきて、下から煽りながら撮ったりして。それを裕也さんが後ろのほうでニヤニヤしながら見てるんですよ。

――裕也さんらしいですね(笑)。

BORO:ほかのお客さんは、一体何が始まったんだろう? って感じで、不思議そうに見てましたけどね。

――「大阪で生まれた女」を作られたのは、おいくつのときだったんですか。

BORO:23のときです。

――じゃあ、作ってすぐに裕也さんに気に入られたと。あの曲、もともとは18番まである長いものだったそうですね。

BORO:戯曲のようなものです。ほかにも長い歌がたくさんあるんですよ。レコーディングするときにそれを短くするんですけど、もとは大体長いんです。

――物語を書きたくなるわけですか。

BORO:そうですね。高校生くらいから海外の戯曲の本を読み漁っていて、いつか自分も戯曲を書いてみたいと思ってました。浄瑠璃の世界観なんかも好きだったんですよ。そういう影響もありつつ、自分なりに自然発生的に戯曲のような歌を作っていたんです。

――18番まである「大阪で生まれた女」の歌詞をネットで探して読んだんですけど、7番で「ひかり32号に乗って 東京へと 涙がとめどなく流れつづけた」とありますよね。東京に出て行って大坂を振り返る自分をイメージしながら書いたわけですか。

BORO:そうですね。その物語のなかには実在の人も出てくるし、想像上の人も出てくる。フィクションとノンフィクションが入り混じったものなんです。

――10番では「今日、西口のロータリーでのもめごと 警官が学生を追いかけてた」とありますが、この部分は1969年の学生運動を背景に書かれたわけですよね。

BORO:はい。歌を作るときって、20年、30年経って聴いたときに「あの時代だな」ってわかる印をどっかにつけておかないと面白くない。例えば「公衆電話」も今はもうないけど、その言葉が入った歌を何年か経って聴くと、よみがえってくるものがいろいろあるでしょ? コインの落ちるあの音とかね。

――確かに。で、シングルになった「大阪で生まれた女」は、18番まであるなかから4番と6番を中心に再構成されたものだったわけですが、あそこをピックアップしたのはBOROさんご自身なんですか。

BORO:そうです。裕也さんのもとでレコーディングするときにはもう、4番からスタートすることを決めてました。だいたい5分くらいでまとめないとダメだというルールのようなものが業界にありましたから。5分でも長いんですよ。だいたい1曲3分の世界でしたからね。

――ちなみに「大阪で生まれた女」はBOROさんの2枚目のシングルで、デビュー・シングルは「都会千夜一夜」という曲でした。「大阪で生まれた女」をデビュー曲にしなかったのには、何か理由があったんですか。

BORO:当時はまだ、大阪弁は田舎の言葉というか、東京のお茶の間には入ってきてない言葉だったんです。だから大坂の歌は流行らないだろうという判断ですね。あの曲が79年に出てヒットして、それと同じ頃にカラオケの時代が始まって、あの歌もカラオケで歌われるようになって。漫才ブームがその翌年で、そこから関西弁が東京のお茶の間に浸透しましたけど、それよりも早かった。だからあの歌は関西弁を使った歌の走りのようなものだったんです。

――BOROさんがシングルで発表するより前に、萩原健一さんが「大阪で生まれた女」を出してヒットさせましたよね。同じ曲をふたりの歌手に歌わせるというのは裕也さんの戦略だったんですか。

BORO:そのようですけど、たまたまそうなったってところもあったんですよね。これはあとで聞いた話ですが、あるとき裕也さんが「今、BOROっていうのをプロデュースしてるんだ」と言って、ショーケンに私のデモをいくつか聴かせたそうなんです。そのなかに「大阪で生まれた女」もあったんですね。それを聴いたショーケンが「裕也さん、これ、オレに歌わせてよ」って言ったらしくて。そういう経緯があったと聞いてます。

――BOROさんとしては、自分の作った歌を先に歌われるのは、どんな気持ちだったんですか。

BORO:びっくりしましたけど、なんか嬉しかったんです。自分の歌を違う人が歌っている。しかもそれがショーケンですからね。ショーケンの「大阪で生まれた女」が有線に入って北新地で聞こえてきたときは、やっぱり嬉しかった。

――萩原さんの「大阪で生まれた女」が79年5月の発売。BOROさんのは79年8月でした。当時、僕もすぐにシングル盤を買って、79年から80年にかけての裕也さんのニューイヤー・ロック・フェスではBOROさんのステージを観てるんですよ。浅草国際劇場で開催されたとき。

BORO:わぁー、そうなんですか?! すごかったですよね、あの当時の浅草のザワザワした雰囲気は。

――ですね。あれは東京でもライブをやるようになって間もないときですか。

BORO:何度かやってからですね。あの頃は裕也さんのバンドが私のバックをやってくれていて。昔、悪名高きザ・ダイナマイツってバンドがグループサウンズにいましたけど、そのメンバー数人がバンド名をスマイラーに変えて裕也さんのバックをやってたんです。ダイナマイツと言えば、私のイメージからしたらアウトローで怖い人たちという感じでしたけど、実際はみんな優しくて。そんな人たちがバックをやってくれるというのは、自分にとって快感でしたよ。憧れてたジョー山中さんと肩組んで歌えたこともあったし、力也さんと一緒に歌ったりもしたし、そのうち松田優作さんとも一緒にやれるようになったし、沢田研二さんもいらしたし。みんな兄弟のようにワイワイやってるなかにいるのがすごく楽しくてね。

――BOROさんはそのなかじゃ、だいぶ若いほうですよね。

BORO:一番年下で、みんなが可愛がってくれました。

――それから7枚目のシングル「ネグレスコ・ホテル」が大ヒットしたのが、1983年。あの曲にはどこかスパニッシュっぽい雰囲気がありましたよね。それから次のシングルは「シシリーの砂」で、シシリー=シシリアはイタリア領の島。スペイン~イタリアと続いたわけですが、あの頃はそういうヨーロッパ的な雰囲気を特別意識されていたんですか。

BORO:もともと高校時代の3年間、神戸の三宮でフラメンコ・ギターを習っていたんですよ。フラメンコの先生に習っていたんですけど、前からフラメンコが大好きで。ですからフラメンコ調のオリジナル曲もたくさん書いているんです。ジプシーとかそういう世界観が好きなんですよね。

――なるほど。BOROさんのギターにフラメンコっぽいニュアンスがあるのはなんでだろうとずっと思っていたんですけど、そういうことだったんですね。

BORO:はい。私が弾いてるのはフォーク・ギターじゃなくてフラメンコ・ギターなんですよ。今回のアルバムでもフラメンコ・ギターを弾いています。だからどうしてもフラメンコのテイストが出るんですね。ピックを使わないで、指で弾くスタイルですので。

――フラメンコ・ギターでロックやブルーズ的な曲を弾くというスタイルは、日本だと珍しいですね。

BORO:しかも私の場合は、フラメンコ・ギターを弾いてハーモニカを吹きますからね。ほかにいないと思いますよ。

――当時、自分はアルバムも愛聴してまして、そこには隠れた名曲もいろいろ収録されていました。でもやっぱり世間の人たちは「大阪で生まれた女」と「ネグレスコ・ホテル」というふたつの大ヒット曲ばかりを求めてくるわけじゃないですか。それに対してフラストレーションを感じることはなかったんですか。

BORO:ありましたよ。ですからコンサートでこの2曲を歌わない時期がありました。でもあるとき、神戸のコンサートでこんなことがありましてね。終わってステージから去ろうとしたときに、お客さんがわーって来て、「なんで『大阪で生まれた女』と『ネグレスコ・ホテル』をやらないんだ?!」って真剣に怒るんですよ。「それを聴きに来たのに!」って。その真剣さが刺さりましてね。目が覚めました。これはもう自分の歌というより、独り立ちして大きく育った歌なんだなと。それからは2度とレパートリーから外さなくなりました。あのお客さんのおかげですね。

――80年代はその後もビクターから徳間ジャパンに移籍しつつ東京でコンスタントに作品を発表して活動されてましたが、1990年には拠点を大阪に戻されました。

BORO:歌を生み続けるにあたって、すごく大事なことがひとつありましてね。それは言葉なんです。言葉というサウンド。つまり大阪弁も自分のひとつの武器であると。それを使うには、環境や空気感も大事だなと思ったんです。そう考えたら東京を拠点にすることにこだわる必要はないなと。それともうひとつ、そのとき親父が癌の末期ということで、じゃあ最期くらいは面倒見てやろうと。ちゃんと恩返ししなきゃと思って、それもあって大坂に帰ったんです。

――そして94年にはご自身のレーベル「BBB Records」を設立されました。

BORO:自分のやりたいことをもっと具体化していこうということでね。業界のルールに縛られることなくやりたいという思いからですね。

――今でこそ自主レーベルを作って自分のペースで作品を発表しながら活動を続けるアーティストも少なくないけど、94年というとだいぶ早いですよね。当時は珍しかったんじゃないですか。

BORO:まわりにいなかったですね。だから理解してもらえなかった。せっかくメーカーがあるのに、そこから飛び出して、一体おまえは何をやろうとしてるんだ、と。でも楽しかったんですよ。そうやって自分で動き始めた結果、TSUTAYAを展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)の創業者と知り合うことができ、レーベル設立に協力して頂いた。その時に、じゃあ、私のレーベルはCCCじゃなくてBBBで行こう(笑)ということでスタートしたのがBBB Recordsなんです。

――その10年後の2004年には、BBB Recordsの専用スタジオ『BOROの音符工房』を神戸市に作って、そこで所属アーティストの作品のレコーディングやプロデュースを行なうようになった。またそこではCD販売や音楽配信も行なっています。これもまた相当早いですね。今でこそ配信という形は主流ですけど、そんなに前からそれをやられていたとは。

BORO:その頃は、販売ルートを持っていなかったし、もがいた末に、じゃあダウンロード販売とか通信販売というのをやってみようという感じでね。ダウンロードのシステムやカード決済のシステムを仲間が一緒に作ってくれて。どうにか始めたわけですけど、「BORO、それって最先端だよ」ってあるときに言われました。「アーティストがみんなやりたいと思ってることをやってるんだよ」と。「ああ、そうなのか」って、言われて気がついたんですよ。自分としてはただただ必死だったんですけどね。

――BOROさんというとマイペースでずっと歌を続けてきたシンガー・ソングライターというイメージが一般的だと思いますが、実際はそのように環境作りであるとかプロデュースであるとかにも力を注ぎながらご自身で道を切り開いてきた。昔からそういったことにも関心があったんですか。

BORO:ビートルズがアップル・レコードを作ったでしょ。そんなのを見ていて、自分も将来はレコード会社を作りたいなと思っていました。アップル・レコードはA面にリンゴの写真を使って、B面にりんごを切った写真を使ってたでしょ? そういう発想が面白いなと思って、私はボビーという犬を飼っていたのでボビー・レコードとつけ、A面にこっちを向いている犬の写真、B面に尻尾の部分の写真、というふうにして。そういう遊び心の延長で、大人になってBBB Recordsを作ったんです。まあ、少年の夢ですよ。

――では、ニューアルバム『SHOUT!』の話をしましょう。これはBOROさんの名曲や大阪のソウルソングをスタジオライブ形式で一発録音した作品ということで。この発想はどこから?

BORO:アイビーレコードの酒井(善貴)さんが「タイトルは『SHOUT』にしましょう。『スタジオ一発録音にしましょう』と、今回のイメージを全部作り上げてくれました(*アイビーレコーズは、CCCの支援を受けて2011年に独立する形で設立。アルバム『SHOUT!』はBBB Recordsとアイビーレコードの共同制作という形になっている)。ライブステージを真空パックするのが、一番自分の持ち味を出せるだろうと。坂本裕介さん(Key of Life)によってマスタリングされた音を聴いたときには、自分でもぶったまげましたね。生々しいロックの音色になっていて、これはすごいと思った。

――収録されたのは、ライブで歌われてきた曲ばかりですよね。

BORO:そうです。今回初めて歌ったのは、五輪真弓さんの「恋人よ」とショーケンの「ぐでんぐでん」の2曲だけ。「ぐでんぐでん」は、最近ショーケンがまた復活したってことで。ショーケンは必ずライブで「大阪で生まれた女」を歌うので、いつかお返ししたいと思っていたんです。

――なるほど。

BORO:でも「ぐでんぐでん」をレコーディングするにあたってYouTubeなんかを見てみたら、ショーケンの歌い方が時期によって全然違っていて、どれが正しいのかわからなかったんですよ。ほかにもこの曲を歌っている方がいるけど、それも違っている。

――萩原さんはライブをするたびにどんどん崩して歌っていきますからね。

BORO:そうなんですよ。で、「ぐでんぐでん」の作曲は鈴木キサブローさんで、キサブローさんは友達なので、オリジナルのメロディを教えてくださいと連絡したんです。そしたらファックスが送られてきて、そこにメロディが手書きでばーっとあって。何しろ作者が書いてるんだから、これが正しいんだろうと信じて、それをそのまま歌わせていただきました。そのあとでショーケンのオリジナルのスタジオ録音バージョンを聴いたら、なんとちゃんとその通りに歌われていたんですよ(笑)。

――あははは(笑)。そういえばオリジナルのバージョンが収録されたアルバム『DONJUAN』では、萩原さん、ちゃんとメロディラインを歌ってましたもんね。

BORO:そうなんです。まあそんなことがありながらも「ぐでんぐでん」はそれほど苦労せずに歌えたんですけど、五輪真弓さんの「恋人よ」は難しくて、なかなかできなかったですね。歌ってみると、メロディの動きがすごく繊細なんです。難しいので一度諦めようかとも思ったんですが、練習しているときに女房が聴いて、グッときたようで泣いてるんですよ。だからなんとか一生懸命練習して、ようやく今では自分の歌のように思えるまでになりました。

――カヴァーといえば、河島英五さんの「酒と泪と男と女」もまた収められてます。BOROさんはこれまで3回もカヴァーしていて、今回が4回目。この曲自体と英五さんに対しての思いの強さがこうしてこの曲をまた歌わせるんですかね。

BORO:英五は兄弟みたいな存在でしたのでね。

――デビューの時期もほぼ一緒ですか。

BORO:英五のほうがちょっと早いですね。でも「英五!」「BORO!」って呼び合う仲で、夜中の2時頃によく電話で話したりしてましたし。親友でした。あと、桑名正博ともよくつるんでいて。あのへんの関西勢はみんな兄弟みたいな感じでした。

――こんなふうに言うとあれですけど、みなさん先に亡くなられて……。

BORO:そうなんですよ。みんなのほうが私よりずっと元気だったんですけどね。私が一番病弱で、2006年から約10年間はずっと入退院を繰り返して(BOROはある時期から体調不良の状態が長く続き、2010年にはドラムのシンバルスタンドが倒れたことによる硬膜下血腫で生死をさまよい大手術を受けたりもした)。今は元気になりましたけど、そうやって私が闘病している間にみんな天国にいっちゃって。みんな豪傑だったんですけどね。英五なんて背は高いし、酒は強いし、こいつはそう簡単には死なないなと思っていたんですけど、一番早かったですから。

――そんな思いもあって、残された曲を丁寧に歌い継ぐようになった。

BORO:はい。

――僕は「天国は遠くの街」という曲が昔から大好きだったんですよ。これはBOROさんが松田優作さんに書かれたものでしたね。優作さんをイメージして書かれたんですか。

BORO:そうです。ビクター時代、ディレクターが同じだったんですよ。それで頼まれて、わかりましたと。ブルーズ系のバラードを書いて渡したら、優作さんがすごく気に入ってくれてね。裕也さんの「ニューイヤー・ロック・フェス」にも優作さんがこの曲をひっさげて出られたんですけど、サビのあたりにきたら、裕也さんが私のことを押すんですよ。「BORO、行け!」って(笑)。「いや、怒られますから」と言ったんですけど、強く押されて出ていったら、優作さんも喜んでくれて一緒に歌ったりしましたね。今ではこの歌、原田芳雄さんの息子の喧太がライブで歌ってくれてます。私もライブで歌うんですけど、お客さんは「ここ~か~ら天国は~」って泣きながら一緒に歌ってくれますね。

――今回のアルバムの最後に収められた「ランナーの靴音」もそういう曲ですよね。ライブで必ず大合唱になる。

BORO:はい。これを歌わないとライブが終わらないという。

――2000年代以降のBOROさんにとっての代表曲。阪神淡路大震災のあと、何度も書き直して、その2年後に完成した曲だとか。

BORO:震災の直後は、みんなを励ます歌を書いてくれなんて言われても書けなかったですね。自分も被災者ですから。そういう歌をリリースしている歌手の方は何人かいましたけど、自分には書けなかった。あの直後はね。でも、自分なりの思いはもちろんあって、それを何度か書き直して、2年後くらいにようやく形になったんです。今はもう震災の歌ということじゃなくて、励ましの歌になりました。だから、例えば受験生がたいへんなときにこの歌を聴いて勉強を頑張れた……なんていう手紙が来たりもするんですよ。

――さて、このアルバムが今こうして世に出たことで、BOROさんのなかで変化はありましたか。

BORO:今はこうしてプロモーションとかキャンペーンであちこち回ってるわけですが、既にいろんな化学反応が起き始めていて。デビュー当時、裕也さんたちと一緒に動いていたあの25歳・26歳の頃の躍動感によく似た感じがあるんですよ。命のうねりを感じるというかね。タイトルが『SHOUT!』っていうのも大きいですね。あとになって人生を振り返ったときに、『SHOUT!』で変わった、というふうにきっと思える。ひとつの分岐点にいることは間違いないなと感じるんです。約10年は病気で入退院を繰り返していたけど、今は健康になって元気よく活動ができてるし、どこでもやれるって思ってるんですよ。昔の演歌歌手のようにミカン箱の上で歌うんだってかまわない。どこでも弾き語りで、ひとりで歌える。そういう気持ちにまたさせてくれたのがこのアルバムで。清々しさがありますね。

――じゃあ、2018年はさらに熱く動いていこうと。

BORO:はい。2018年はデビューから39年目で、2019年で40周年を迎えることになるんですよ。東京オリンピックの前に40周年。そこで65歳。だから、そこに向けてどんどん動いていこうと思ってます。

【CDリリース情報】

『SHOUT』

QAIR-10101 税抜価格¥3,000

<収録曲>
01.ネグレスコホテル
02.酒と泪と男と女
03.大阪で生まれた女
04.悲しい色やね
05.ぐでんぐでん
06.うそのない言葉
07.天国は遠くの町
08.恋人よ
09.雨が消した
10.やさしく愛して
11.最後のメロディー
12.ランナーの靴音

BORO

1954年、兵庫県伊丹市出身。
BOROとは、オンボロ自転車に乗って街中を走り回っていた彼に、友人達がつけたニックネーム。1979年内田裕也氏のプロデュースによる「都会千夜一夜」でデビューし、同年「大阪で生まれた女」が大ヒット。以来20枚のアルバム、9枚のベストアルバム、20枚のシングルを発表。

http://8onpu.com/

 

『東京レコード散歩』2017年2月22日発売。東京にちなんだ曲だけを収録したコンピレーション・アルバム『東京レコード散歩』第二弾がレコード会社3社から同時発売!

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