東京レコード散歩 その⑥ 赤坂<後篇>
鈴木 啓之 (アーカイヴァー)

TBS会館があった場所には近代的な建物赤坂Bizタワーが建つ
溜池の交差点を渡り、外堀通りを山王下まで戻る。さらに見附方面に歩くと、昔よく行ったアンナミラーズがあった場所だが、そこまで行かずに山王下の交差点を左折してTBS方面へ。道を一本入ったところには、かつてナイトクラブの「ミカド」があった。フランク・シナトラが昭和37年に初来日した際、最初にライヴを行ったことで知られる店である。ちなみにチケット代は五千円だったという。当時の五千円といえば家賃にも匹敵する高額だから、ここでステージを見ることが出来たのは富裕層や芸能人など、ごく限られた客だけだっただろう。しかしこの場所ももはや夢の跡。

赤坂のシンボル、ビッグハット
現在建っているプラザミカドビルの名称にその名残があるのみだ。自分はもちろん行ったことはないものの、外堀通り沿いに掲げられていた巨大なネオン看板は憶えている。なにしろ、シナトラが天国へ旅立ってからも早や十数年が経つ。遠い昔に思いを馳せ、しばらくビルの前に佇んだ。他にも有名な「コパ・カバーナ」など、赤坂はナイトクラブのメッカであった。
コージーコーナーのあるTBS前の交差点を右折して一ツ木通りに入る。以前TBS会館があった場所には、今は赤坂Bizタワーという大きなオフィスビルが建ち、向かいにあったアマンドも既に無い。TBSの局舎もビッグハットに変貌を遂げて久しいが、まだ同じ場所にあるだけ良しとしなければ。考えてみると他の民放局の中枢機能は全て平成になってから引っ越してしまったわけで。しかし昔のTBSの局内は本当に分かりづらくて迷路のようだった。不法侵入者への対処策だと聞いたこともあるが実際はどうだったのか。テレビ局がある街ならではの活気は根っからのミーハー心が疼いて決して嫌いではない。この辺りが赤坂という街の中心であることは、この地を題材にした歌のほとんどに、通りの名が登場することからも明らか。

いつもの一ツ木通り
今回紹介しているレコードにも、「コモエスタ赤坂」以外すべての曲の歌詞に“一ツ木通り”が出てくる。同行のT氏と、「そういえば昔、この通り沿いに高級吉野家がありましたね」「そうそう、和服姿の女店員がお盆に乗せた牛丼をしずしずと運んできて。たしか並が650円でした」などと想い出を語らいながら歩く。あれはたしかバブルの前後だった。
途中、かつてのコロムビア本社の裏手に続く道を左折。その角が以前CDショップだったがやはり今はもう別の店に。渋味のある飲食店がぽつぽつと並ぶ通りを抜け、コロムビアの跡地に着く。今は大きなマンションが建ち、まったく違う風景になっていた。建物を廻り込み、かつてコロムビア坂だった通りへと出る。今は何坂と呼ばれているのだろう。コロムビア本社は業界の最老舗らしく風格ある建物で、ロビーにも歴史の重みが漂っていた。美空ひばりをはじめとする歴代のスターたちがレコーディングに使ったスタジオくらいはせめて遺すことは出来なかったものかとつくづく思う。向かいに昔から建っているいい感じのマンションは今も健在で安心しつつ、そっとカメラを向けた。頑丈そうだからまだしばらくは大丈夫そうだ。会社や商業施設に比べると、住居はまだ昭和の香りを遺した建物が多い。

すっかり様子が変わってしまったコロムビア坂
中でもとびきりの物件がまだあることを思い出し、界隈を歩くと、少し迷った挙句、目的の地に着くことが出来た。その名は「赤坂リキマンション」。そう、前篇にも名前が登場した戦後の大スター・力道山が建てたマンションである。昭和35年にまずプール付きの瀟洒な「リキアパート」が建設され、3年後に「リキマンション」が建て増しされた由。力道山は最上階のワンフロアに居を構えたそうだが、移住して間もなく例の事件がきっかけで帰らぬ人となってしまったため、その期間は短かった。その後にはジャイアント馬場が住んだ時期もあったという。プロレスに造詣が深いT氏の興奮が横にいて伝わってくる。長い年月を経て若干のリノベーションは施されているのだろうが、周りの建物とは明らかに違うオーラが漂っており、力道山にさほど思い入れがない自分でさえ、ちょっととときめいてしまった。まるで時が止まったかのような不思議な空気が流れている聖地。今回の散歩でようやくたどり着いた、当時のままの昭和遺産なのであった。

築50年の歴史をもつリキマンション
![]() コモエスタ赤坂/ロス・インディオス |
![]() コモエスタ赤坂/マハロ・エコーズ |
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