東京レコード散歩 その➁ 有楽町・日比谷
鈴木 啓之 (アーカイヴァー)
数寄屋橋交差点の不二家前から現在工事中の東芝ビル跡を感慨深く眺めつつ日比谷方面に進むと、右手に聳えるのは有楽町マリオン。昭和56年までは“娯楽の殿堂”と呼ばれた日劇が建っていた。正式名を日本劇場といい、日劇ダンシングチームの踊りや歌手のショーなどの実演と東宝映画の封切を兼ねたメイン劇場に、洋画館の丸の内東宝、さらにはついぞ足を踏み入れることが無かった日劇ミュージックホールなどを擁し、戦前に建てられた由緒あるビルであった。54年に「ゴジラ映画大全集」と題した特撮映画の特集上映があり、連日通ったことが懐かしい。ここでクレージー・キャッツの実演を見てみたかった。
その日劇が歌われたレコードに「日劇讃歌」がある。曲自体はかなり古くに作られたらしいが、シングル盤はだいぶ後になって出された。レーベルは東宝レコード、NDTこと日劇ダンシングチームのメンバーが歌った由緒正しき作品。現在の有楽町マリオンが竣工したのは今からちょうど30年前の昭和59年9月で、その翌月に出された「ふたりの有楽町」には早速マリオンが歌い込まれて、ジャケットにも建物がバッチリ写っている。平尾昌晃先生による久々のデュエットソングは第2の「カナダからの手紙」とはならなかったものの、東京のご当地ソング史的には重要な一枚だ。
そして有楽町の歌といえば、なんといっても「有楽町で逢いましょう」である。現在待ち合わせ場所のメッカとなっているマリオンのからくり時計前には、その歌碑がある。歌唱者であるフランク永井が亡くなった2008年に建立されたもの。東京の歌で最もよく知られた一曲であり、ムード歌謡の代表作ともいえる。「銀恋」の歌碑同様に足を留める人がいないのはちょっと寂しかったが、写真を撮っていると人が寄ってきて、「ここにこんなのがあるんだ」などと連れと話していたから、存在を知らない人も多いのだろう。マリオンの吹き抜けを通って有楽町駅方面へ。この辺りはイトシアが出来る前と風景が一変した。変わってないのは駅前の果物屋とその隣の中華料理店のみ。その先の交通会館や、東京駅方面に向かうガード下の飲み屋街は相変わらずであるけれども。
たくさんの人が行き交う駅前広場から今でも薄暗いガードをくぐり抜けると、目の前にビックカメラが現れる。ここがかつてのそごうデパート。様変わりしても建物がそのままなのは何よりのこと。昭和32年5月にデパートがオープンした際のキャッチフレーズ“有楽町で逢いましょう”は歌番組のタイトルとなり、秋にはレコードが出されて大ヒットとなる。当時上映されていた洋画『ラスベガスで逢いましょう』をヒントに、そごうの広報担当者のアイデアであったという。雑誌「平凡」で小説が連載され、翌年には大映で映画化された。もちろんフランク永井も出演している。現在のビックカメラを訪れてエスカレーターに乗る度に映画のロケシーンが思い出されて感慨深いものがある。
ビックカメラを出て日比谷方向へ歩く。晴海通りを渡って少し進むと、かつての日比谷映画街。現在はシャンテとなっているところに有楽座と日比谷映画、そして帝国ホテル寄りの角にあったのが千代田劇場で、昭和50~60年代の東宝の邦画封切はだいたいここで観た。今は同位置の2階にあるMUJI Cafeをよく利用している。この道は東京宝塚劇場があることから、昔からヅカファンの出待ちで有名だが、GHQに接収されて“アーニー・パイル劇場”と呼ばれた当時の建物は既に無く、瀟洒な現代風のビルに建て替えられている。その隣にあった三井ビル、さらに向かいの三信ビルもここ数年で取り壊されて、この辺りでは東宝ツインタワービルが一番古い建物になってしまった。なんとも寂しい限りである。
三信ビルはアールデコ調の本当に素敵なビルであった。地下通路で繋がっていた三井ビルにはラッキー商会という老舗のレコード店があり、よく買い物をしたのが懐かしい。手元にある日劇の昭和45年「西郷輝彦ショウ」のパンフレットの裏表紙に同店の広告が載っており、自分が知っている時代とは少々異なるものの、店内は概ねこんな感じ。いい雰囲気のレコード屋さんだった。写真をよく見ると「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」のポスターが貼ってあったりして。入口でお客様を迎えてくれていた大きなニッパー君は今もどこかで健在だろうか。

「イトシア」の名称は「有楽町で逢いましょう」の歌詞「雨もいとしや」がヒントになっているそう。
![]() 有楽町で逢いましょう/フランク永井(昭和32年) |
![]() 日劇讃歌/西川三知代&ザ・ヤング・ラバーズ(昭和50年) |
![]() ふたりの有楽町/平尾昌晃&水谷ジュン(昭和59年) |
![]() 夜霧のインペリアル・ロード/黒沢明とロス・プリモス(昭和44年) |